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【Story1】フィリピンという国で、私の人生観が大きく変わる。

 
 
こんにちは。田島です。


有難いことに、よくお会いする方から
「どうして教育だったんですか?」「田島さんはどうやって、自分の心のコンパスを思い出していったんですか?」という質問をいただきます。

そこで、このページでは『自分の心のコンパスに出会うまで、出会った後の物語』を、複数回にわけて綴っていけたらと思います。

何かのお役に立てるかはわかりませんが
私自身は「人の生き方に触れる」ことで、自分の心のコンパスを思い出していった人間なので、何かの気づきやきっかけになれたらと思って綴ります。

2年間のいじめ経験が
「人間」を大きく変える
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

1987年2月25日、埼玉県北本市に
10歳と7歳年上の姉がいる、末っ子長男として産声をあげる。

幼少の頃は、知らない大人にも境界線がなく
自分から積極的に輪のなかへ飛び込み、いつも周りには「人」がいるような幼少時代でした。
 
そして「勉強」が本当に嫌いで、「勉強をする意味」もわからず、動いている方が好きでした。
小学生になっても「好きな科目は体育で、嫌いな科目は体育以外で」と答えるほど、自分の活躍できる舞台は「運動会」と「スポーツテスト」くらいだと、本気で思っていました。笑
 

地元の埼玉県北本駅からみえる景色
 

友達も割と多く、勉強はできないものの、それなりに充実した小学校生活を送っていましたが、小学5年生のときに、事件が起こる。
 
その事件とは、
当時親友だと思っていた2人を筆頭に「2年間のいじめ」を経験することになりました。


きっかけは、クラスの中心的存在だった親友2人が仲違いになり、2人を筆頭に派閥ができたことからはじまりました。
当時の私は2人のことを親友だと思っていたので、私のなかでは「どちらの派閥に所属するのかとか意味がわからん」という上手に中間の立ち位置を貫いていたんですが、その中途半端な態度が2人からしたら気に食わなかったのでしょうね。

気づけば、私に矛先が集中して、結果的にクラス全体から無視されるようになり、親友だと思っていた2人からは言葉の暴力も受けることに。


そんななかで最もしんどかったことは
1時限目の休み時間にしゃべっていた友達が、2時限目の休み時間には無視される。
そんな2人を中心にその周りの人の態度の極端さが、当時の私にはものすごく辛くて、クラスのどこにも心が休まる場所がありませんでした。


だからといって、そんな弱さを
「心配をかけたくない」という理由で家族に相談することもできませんでした。

今でも鮮明に記憶に残っているのは
小学校から自宅までの帰り道にゆるやかな登り坂があるんですが、その坂の下で「悲しい/辛い気持ちを落ちつけて、元気になるスイッチを入れてから自宅へ帰る」ということをしていました(苦笑)

そんな辛いながらも、まさかの1日も休まずに、皆勤賞だったので、なかなかすごいことをやっていたなと思います。笑

(あとは小学4年生のころから学校外で他校の人が交じる少年サッカーに所属していて、そこが居場所になったのが大きかったですね)
(家でも学校でもない「第三の場所」をもつことの大事さを、この頃から漠然と感じていました)


いじめ自体は小学校卒業を機になくなりましたが
この2年間の経験は、私の「人間/性格」をガラッと変えるくらい大きな影響を与えた出来事となりました。


「自分の本音をだすと、攻撃されるんだ」
「自分の意思を貫くと、周りとの輪が乱れちゃうんだ」

自分のなかでそんな思い込みが強くなり、そこから人と本音で接することも、心の距離もとるようになっていきました。

それは「2度と同じ想いをしたくない」という気持ちから、中学生のときは自分の気持ちよりも周りの空気を読んで合わせる自分に。人と深い話はせず、関わろうとせず、いつもどこか表面的に接していた。

友達がいなかったわけではないけど、それでもどこかで一線引いている自分が、高校時代まで続く。



そして進路の時期になり、特にやりたいことはなかった。
ですがひとつだけ「海外に行ってみたい」という気持ちだけがあって、それを当時の高校の恩師に相談すると、「東京国際大学国際関係学部」を薦めていただいて、無事に入学!

(「指定校推薦でいけるから受験勉強しなくていい」という、なんとも浅はかな理由も強かった)


ですが、まさかココから、私の人生が大きく動きだすとはこのときまだ思ってもみませんでした。
 

変わったゼミとの出会い
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

大学では珍しく「1年生」からゼミが必修であり、そのなかでも私の所属していたゼミは、ちょっと変わっていました。

(「大変・面倒・意識高い」と周りの生徒から言われるほど、有名なゼミだったということを後から知りました笑)


まず、このゼミでは『理論学習×現場体験学習×発信活動学習』という学びの3本柱というものが学びの土台にありました。

なので、ただ机上で学ぶ授業だけではなく
国内外で実際に起こっている様々な社会問題を「自分の問題(当事者意識)」として感じることを目的に、現場へのフィールドツアーが毎年開催されている。

そしてその体験を元に、シンポジウムや研究会や高校生への出張授業など「学生の立場から社会へ発信する」という機会もあり、まるでNGOのようなとてもアクティブな学びを体現しているゼミでした。


理論学習もただ一方的に先生から学ぶのではなく、「学生主体」でディスカッションリーダーを決めて、議論をする。
さらに、週1回は学年の垣根を超えて、「1〜4年生が合同で学ぶ」機会もある。

そんな『縦と横のつながりで学ぶ場』と、『理論×体験×発信』という学びの3本柱をもとにした【生きた学び】が、このゼミにはありました。


そんななか、転機が大学2年生に訪れました。

 

人生観を変える体験
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

そんな現場体験学習の1つに「フィリピンの貧困・教育・環境問題を学ぶスタディーツアー」というものがあり、このゼミの最も人気の高いイベントだったこともあり、大学2年生の春休みに参加することにしました。
 

街中にいる子供たち。
 

そのなかで、交流させてもらった農業大学の学生たちとの出会いが、私の人生に大きな転機を与えてくれました。


まず、彼ら彼女らが暮らしている地域は、フィリピンのなかでも「最貧困地区トップ5に入る地域」でした。
彼ら彼女らは大学に通っている段階でその中でも裕福な方ではありますが、学校以外は生計の中心の農業を手伝いをして、決して余裕のある暮らしとはいえない状態。


それなのに学校が終わりや、授業と授業の合間に
大学の前の大きな道の先にある最貧困地区に訪れて「文字の読み書き」を教えている活動をしていると教えてくれました。

その時間を、仕事に費やすこともできるのに、です。

最貧困地区のとあるお家。
屋根はバナナの皮でできている。
 

(これは生活に余裕のある、安全な国に生きている人間だから生まれる疑問な気がしますが)私はそんな学生たちの取り組みに対して、疑問でしかなかったわけです。


「なんで自分たちも経済的に余裕があるわけじゃないのに、自分たちの家族でもない他人に、そんなことができるんだ?」
「その時間を、農業にあてて生活費を稼ぐ方が大事なんじゃないか?」って。



そんな疑問がずっと心のなかにあり、交流最終日に勇気を出して、仲良くなった同じ年の男子学生にそのままこの疑問をぶつけてみた。

すると、こんな答えが返ってきました。


『僕たちはこの地域に育ててもらっているから、その地域に恩返しがしたいだけだよ。でもボクにはお金がないから、お金はあげられない。そこで自分たちでできることを考えたら「村の人たちは文字の読み書きができないけど、僕たちはできる」ってなってはじめたんだ!』

この気持ちを偉そうにでもなく、むしろ当たり前のような感覚で話してくれた彼の姿をみて、そこには【自分にはない輝き】を感じました。
 


この彼ら彼女らとの交流の経験から
「幸せは、目に見えるものだけじゃないのかもしれない…」と、肌で教えてもらったような気がしました。

それと同時に、恵まれた学ぶ環境があるのにそこに言い訳をして、何もしてこなかったこと自分に腹が立った。
色んな苦しい経験はありましたが、それでも結局『自分』から諦めているだけだったということに恥ずかしくもなりました。



彼ら彼女らは私よりもずっと素晴らしい向上心や問題意識をもっているものの、図書館にある本棚はスカスカで、最新の本といっても3年前のもの。

それでも自分たちの環境に悲観的になることなく、自分でできることを全力で生きていた。

直接彼ら彼女らから直接聞いたわけではないけど、『今を全力で生き、自分の人生を生きている』とすごく感じました。

フィリピンの学生たちと最後に撮った写真
 

この出会いは、「自分もそんな輝くような生き方をしたい!」という気持ちを与えてくれました。

これが『自分の生き方を真剣に考える』という原点だったような気がしています。

Story2へつづく




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