【Story9】自分の生き方を、当たり前に考えられる文化
こんにちは。田島です。
この記事は『私が自分の心のコンパスに出会うまで、そして出会った後の物語』を、複数回にわけて綴っているシリーズ記事です。
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自己啓発業界への違和感
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起業3年目(2019年)に入ると
1対1のパーソナルな関わり合いの他に、企業や学校規模でお仕事をするご縁が増えました。
そこでこの心理・自己啓発業界のことをあまり知らない人と関わる機会が増えたことで、自分の業界を「外」からみるという貴重な経験をしました。
そのなかで、今まで感じてこなかった、この業界に対する『違和感』『世界の狭さ』に気づくことになるのでした。
私は心理学や能力開発のセミナーや研修を受講する側も含めると、かれこれ「11年」の時間が経ちます。
もちろんこれまで述べたように
知識や技術を学びすぎて知識コレクターになり、ジプシーになってしまったこともありましたが
それ以上に、この世界の叡智に触れたからこそ『自分』という存在を理解でき、起業をしてからも『自分の想いや強みを活かした働き方・生き方』ができるようになったと感じています。
人間関係においても、同じ家にいるのに2年間両親と口をきかない時期もありましたが、今では私の活動を応援してくれています。周りにいる友だちも心から信頼できる人に囲まれています。
とまぁ、だからといって
「毎日がハッピー!」というわけではなく笑
今もガクッと落ち込むこともあれば、気持ちが大きく揺らぐこともあれば、人や社会との距離感に疲れてしまうことだってあります。
ただ、そんなときでも振り回されすぎずに
自分で「幸せ」を見いだせて、それを大切に育める自分になれるようになっていきています!
冒頭に「この業界に違和感」とか書きましたが、それはこの業界を「否定」したいわけでは一切ありません。
むしろ、もっとここで伝えられているエッセンスが広がればいいなーと思っているくらいです。
その上で、私のなかで「違和感」があります。
それは、どこか「ビジネス色」が強くなりすぎてしまったことによる、「怪しさ」が広がってしまっているのではないか、ということです。
(あくまで個人の意見です)
(またこれは個人が自分の考えを発信することの自由度が高まり、さらにSNSを使った起業ブームが追い風になったことで、この業界も個人でも仕事にできる人が増えたことで、認知が広がったという恩恵もあります)
心やマインド、生き方や精神性などは、そもそも目には見えませんよね。
それを「個人」が仕事にしようとすると
無名な個人が「自分」という存在をまず知ってもらうためには、必要以上な露出や自撮り発信、目立つための過剰表現をすることが必要と感じる人や、それを提唱するサービス提供者もたくさん増えたように感じます。
さらに、心やマインドのことを仕事にしたいと願う人のなかには、「自分が変化したものだから、自分もこれを使って誰かを助けたい」という想いがある人も一定層いるような気がします。
もちろん自分が良いものをシェアしたい、その気持ちはとても素晴らしいものですし、なにも別に「それがダメだ」とか言いたいのではありません!
ただその想いが強すぎると、『自分の想いをただ主張する/押しつける表現』になり、どこか読者からみると押しつけがましい印象を与えてしまっているような印象を受けます。SNSの世界はとくに。
もちろん、私も誰かからみたら上記のような人間だと思います。
なのでそこは受け入れた上で、ある時からこんな違和感を感じるようになりました。
心の成長も、自分に合った生き方に出会うのも そもそも短期的に築かれるものではないはず。 いわば『生涯』を通して、探究や実践を繰り返しながら、育まれていくものだと思う。 それなのに、なぜかこの業界では それらが「3ヶ月・6ヶ月とかで見つかりますよー!理想の生き方ができる自分になれちゃいますよー!」みたいなキャッチコピーやサービスが溢れている。 そもそも人間形成を目的にしている学校教育では、義務教育だけでも「9年」という月日をかけている。 子どもよりも大人の方が色んな経験して年齢を重ねたからといって、私たちは「こうやって生き方を考えるんだよ」みたいな「生き方の教育」は基本受けたことはない。 つまり、「生き方」という視点からみたら小学1年生なのに、それを「いきなり半年とかで見つかるよ」なんて、とても不自然だよな〜
そんなことを正直、思っちゃったんですよね。
ただそれはきっと、時代が進化してきたことも大きい。
いまの50代以上の人たちの全盛期とちがい
今の時代は「コレさえやっておけば!」「良い大学・大手企業に就職すれば安泰!」という社会構造は、すでに崩壊していますよね。
そうなってくると、すべて「自分で」考えて決めていく必要があります。
その上で、情報も選択肢も溢れて、一人あたりの役割ややることも増え、正解不正解のない自由な時代です。
そんなめまぐるしい変化は『未知』だからこそ、色んな不安が生まれやすく、「自分はどうしたいんだろう?」みたいに迷うのは当たり前なように感じます。
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そして、ココに不安や焦りを感じている人たちは、その気持ちをどうにかしたくて「今すぐにでも解決したい!」「安心したい!」という新たな焦りの気持ちが生まれやすくなる。
すると「長期的な目線でじっくり考える・育てる」という大切さは頭ではわかっていても「短期的成果・変化」を求めたくなる気持ちになるのではないかなと。
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そこに1つのビジネスチャンスがあり、困っている人からみてもわかりやすい。
そんな社会的背景があり、そのなかで「無名の個人」が存在感を出すために、見せ方や伝え方などの表現方法を「過度な表現/奇抜な表現」にしていった方が興味をもってもらいやすかったのではないか?
つまり、在り方・生き方のような概念が、【短期的に悩みを解決するための問題解決ビジネス】へと、いつしか移り変わっていったのではないかな、というところに、自分の考えが行きついたのです。
※あくまで、私の個人的見解です
こういったことが、「怪しいな」「胡散くらい」「宗教」という言葉のイメージを加速させてしまったのではないか?
そして私自身も、業界の外から眺めたときに「あっ、確かに。」と、妙に納得したところがあったんですよね(笑)
自分のことや生き方を考えることが
当たり前になる文化へ
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この違和感に気づいた時に、私はこの違和感をスルーしたくないと思いました。
こんな一面を理解した上で、「じゃあこの業界をもっと”身近”に感じてもらうには、どうしたらいいか?」というところに、もっと考えや時間やエネルギーを注ぎたくなりました。
それは私自身が、この業界で本来大切にされていることも、教えられていることも素晴らしいものだと思っているからであり、『人生の歩きかたを見いだせる「人生教育」』とさえ思っているからです。
そして、この頃からでしょうか。
この業界のやっていることに興味はあるけど
「なんか怪しいな」「そこにいる人たちと一緒にされたくないな」と思っている人たちが
「自分の気持ちと向き合うこと」
「自分の人生(生き方)を考えること」を
決してすごいことでもなんでもなく
意識の高い人がやるものでもなく
修行チックな感じではなく
考えることが当たり前の『文化』になったら最高だな
という想いが芽生え始めたのは・・。
未来の子どもに今の時代を説明した時に
「えっ、それってむしろ当たり前でしょ!そんなのがわざわざ必要だと言われていたなんて、おかしな時代だったんだね。笑」
そんな感じに、どこか小馬鹿にされるくらいの「1つの文化」になったら素敵だなと純粋に思ったんですよね。
この想いが、いまの私の活動の根っこにあります。
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