【前編】人は、自分が信じたいものを信じて「現実」をつくっている
こんにちは。田島です。
すっかりご無沙汰となりました。
7月は1ヶ月、自分で自分を止めるため「夏休み」をいただいておりました。
この期間は、SNSも一切投稿することも手放し、ネット環境からも意図的に離れることを選択。
そして、前もって夏休みの予定を決めないことと、この期間に生まれたインスピレーションには理由や理屈を求めず、まずやってみるとだけ自分と約束していました。
仮に何も思いつかなくても、無理に見つけようとせずに、時間の流れに従ってみることを大切にしていました。
その瞬間、それをやる意味は私にもわかりません。
これどこうして夏休みを終えて振り返ってみると、この1ヶ月で生まれたひとつひとつの出会いや出来事、その流れは完璧でした。
これも理屈ではない決断にも関わらず、仲間やお客さんが温かく背中を押してくれたお陰さまです。心からの感謝を。
(この直観を信じて夏休みをとると決めた過去の自分にもありがとう)
頭ではなく、心で感じることからの選択の連続だったため、この経験をすべて言語化することはできません。
(する必要もないとも思っています)
ですが、ひとつだけ、分かち合わせてください。
こうして何気なくこの記事に出会ってくれたあなたなら、何かが共振しあったのだと思います。
2部構成になっておりますが、お付き合いいただけるとうれしいです。
夏休みにこめられた想い
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
私は社会人になってからの13年間
現状に満足するよりも、立ち止まってじっくり考えるよりも、【行動】を選んできました。
とにかく「成長/変化」を求めて、【自らの価値を高める】ために走り続けてきました。
なぜなら、もともと自分は「動いていないと/成長していないと価値がない」という人間だと思っていたからです。
この自分が嫌いで、それを受け入れるのがとてつもなく嫌でした。
なので、純粋に成長したいというよりも、正直「成長しなければいけない」という焦りや義務感のような気持ちの方が強かったように思います。
そうやって生きてきましたので
「長期間休むこと」は、私にとって最も選びたくないものでした。
休むときにも「これから忙しくなるから」「体調が優れないから」という【明確な理由】がないと、自分に許可をだせなかったくらい、自分に一番《禁止》してきたことです。
ただ、心が叫んでいた。
「1ヶ月休めたらどんなに楽だろう」って。
強烈なザワつきと戸惑いを抱きながらも
そんな自分に禁止してきたことだからこそ、それを選んだ先にどんな世界があるのか・・?
それを知りたくて、今回の夏休みをとるという決断に至りました。
そんな夏休みは、私にとってとても意味あることを教えてくれました。
・なぜ休むことを恐れていたのか
・なぜ成長を義務感のように感じていたのか
・なぜ相手と関係が深まるほどにギクシャクしてしまうのか
この私の長年の謎とともに
結局私は何を欲しかったのかが、ようやくわかりました。
夏休みが教えてくれた
私がずっと欲しかったもの
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
私がずっと欲しかったものは
何か特別なことをしていなくても「ありのまま」の自分を愛してほしいという愛情でした。
「そのままでいいんだよ。そのままのあなただから一緒にいるんだよ。」という愛情を、自分ではなく「誰か(他人)」からもらいたかった。
そのために、ときに自分の気持ちよりも
相手の気持ちを尊重したり、そこに合わせた言動をとったりしていたのだなと。
(もちろんそれだけではありませんけど、パートナーや仕事仲間といった深い関係になる人にはよく顔をだしていたなと)
そして、いつしか私のなかには
『ありのままの愛情をもらうためには、その相手にとって自分という存在が価値あると感じてもらえる人間になる必要がある』という勝手な方程式が生まれ、それをずっと信じて生きてきました。無意識で。
ちなみに、ここでいう「価値」というのは【自分自身が、それをもっていることで価値があると感じる人間】を指します。
✔️ 自分で大きな旗(ビジョン)を掲げて、そこに向かって進んでいる
✔️ その情熱にたくさんの人が共感し、応援者がいる
✔️ 社会的意義のある活動をしている
✔️ 戦略的に、計画的に行動できる
✔️ 発言に対して理論と根拠がある
✔️ 一度決めたことにブレずに進んでいる
✔️ 結婚している人がすごい
挙げればキリがないですが、例えばこんな感じです。笑
そして結局これらはすべて、私自身が自分に対して欠けていると感じているものだったわけです。
・・そうやって私は、愛に渇望していた。
こうして自分の根っこに気づいてみて、【初めて】大きな矛盾に気づいたわけです。
ありのままの自分を愛してもらうために
「自分にはない真逆の価値ある人間」になろうと頑張ってきたわけですが
真逆の価値ある存在を目指そうとすればするほど、どんどん自分のありのままを出せるハードルは爆上がりし、どんどん受け取れなくなる環境を【自分】でつくっているたという矛盾です。笑
さらに、これを何十年も追い求めてきましたが、結局私が望む愛情のカタチを100%差し出してくれる存在には出会えなかったというのがオチです。
これまで何度も人や環境を変えてきたこの旅も、ようやくひとつの終わりが迎える準備ができたのが、このタイミングだったんだと思います。
こうして気づいてみると「遠回りしてきたな」「無駄なところに時間を割いてきたな」という気持ちが顔を出すけれど、きっとこの道を味わい切る必要があったのだと思います。
自分自身が【納得】するためにも。
自分から気持ちよく【諦める】ためにも。
終着点は、シンプルでした
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
この私のなかにある愛の渇望感を埋めるための旅の終着点は、結局【自分から】一番差し出して欲しかったというものでした。
愛情をもらうために、相手の求めることを汲み取って色々と頑張ってきた。
しかし、その愛情を差し出してもらえないシーンが続くと「こんなにやっているのに、どうしてありのままの愛情をくれないんだ」と拗ねて、相手を責めて、勝手に絶望感を感じて被害者になっていた。
(こうして言葉にすると、すげぇ嫌なヤツですよねw)
ですが結局は、全く同じことを、自分は自分に対してしていたわけです。
自分は自分からこの愛情を欲しかったのに、私ではない他人を連れてきて与えてばかりだったということ。
(あぁ、恥ずかしい。。。)
(すべてが繋がったとき、心から自分にごめんなさいしました)
こうして自分の人生のなかで長年謎だったものが紐解かれて、良い悪いという概念を超えて本当に求めていたと繋がってみて、肚落ちしたことがあります。
【人は、自分が信じたいものを信じて、それを「現実」としてつくっている】
この信じたいものというのは、いまの自分にとって良いものだけではありません。
「そんなこと求めていない」「そんなこと自分が選んでいるわけない」と思っていても、そこを根っこでは求めていることがあります。
そんな自分に対して、私たち人は「良い/悪い」というストーリーを付け加えていく。それが結局、色んなことを難しくしているだけなんだと思います。
こういったお話をすると、つい「ストーリーを付け加えない人間がよい / ストーリーを付け加える自分がダメ」という新たなストーリーをつくりがちです。笑
そうではなくて、この反応はもはや反射神経なみなので、そのシステムをただ受け入れて、その上で自分が何を選ぶかが大事なのだと思います。
(ややこしい表現しか説明できず、ごめんなさいw)
後編へつづく
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
こうして言葉にするとスムーズに整理できたようにうつるかもしれませんが、そんなことありません!笑
渦中はものすごく拒否反応は起こるし、そんな状態に耐えられずにすぐに結論を出したくなるし、その苦しさを何かから埋めようとするし、まぁ大変でした😅
なにより、ここまでの深い気づきは、私ひとりで向き合っていただけでは決して到達しなかったですね。
客観的でフラットな立ち位置から意見をくれたり、ただただ話を聴いてくれたりしてくれた存在がいてくれたからこそ、回避行動や現実逃避をしなくて済みました。
こうして自分の中の謎解きが完了したわけですが
大事ポイントは、私のなかで愛の渇望感がなくなったわけではないということです!
そもそも「自分の根っこが昇華されると、それに振り回されなくなる」というのも、ひとつの盛大な勘違いだったということも肚落ちしました。笑
・
・
・
この辺のお話もぜひ分かち合いたいのですが
ここから書きはじめると超大作になっちゃうので(笑)、一旦ココで締めさせていただきますね。
【続き】は、下記よりご覧いただけます。
よかったら、こちらもぜひ👍
この記事へのコメントはありません。